【第四回】克己 出羽海智敬自伝

出羽海部屋 背景色

(十)

 昭和三十五年の一月場所、西幕下四枚目で六番勝って、次の三月私は十両に上がった。部屋の先輩や親方衆は、「あんなのは五、六番で終わるよ」  と言っていたが、その場所私は十一番も勝った。これに気をよくしてけいこをしたためか、次の場所も十番勝って、五月には十両の上位に進んだ。
 名古屋では終盤の四連敗がたたって初めて負け越したが、十一月、十一勝して今度は幕内確定だろうということで、千秋楽、部屋の打ち上げに出た。その打ち上げ式でのことは忘れられない。
 師匠の元常ノ花の出羽海親方は、当時はもう相談役だったから、どこかに行ってふぐかなんかを食ってしたたか酔っていた。部屋で表彰式を待っていたら、そこへ師匠が来て、「おっ、お前、佐田の山。よかったな。来場所は幕内だな。しっかりやれよ」
 と声をかけてくれた。
「ごっつあんです。お陰様で」
 おやじと一対一で直接口をきいたのは、入門以来これが二度目のことだ。そうしたら師匠はその明くる日に亡くなってしまったのだ。
 おやじが死んだというので、我々部屋に居合わせた者だけで、とりあえず二日市の大丸別荘にとんで行って、師匠の遺体を寝台車で宿舎まで運んで来た。あのときは確か金乃花も一緒だった。本当にあっけない、はかないものだなと思った。特に前日、初めてといってもいいくらい、声をかけてもらっただけに……。師匠は定年の一年前、六十四歳ぐらいだったろうか。
 常ノ花のおやじは自分たちにとっては寄りつきにくいというより、はるか遠い存在だった。私が入った当時は師匠がけいこ場に朝早く起きて来たりすることはなかった。おやじが部屋に寝泊まりして、関取衆からのけいこを見るようになったのは、割腹した後、相談役になってからのことだ。それまでは理事長として協会の仕事だけで、部屋のことが忙しくて、手が回らなかった。
「おれの目の黒いうちはやめんぞ。まだまだおれはやって行くそ」
 と言って、部屋のけいこを見るようになったのだが、それでも起きるのは関取衆の申し合いが始まるころだった。
 師匠が代わって武蔵川さんになってからは、けいこ場の上がり座敷に、羽織、袴で朝の五時からデーンと座るようになった。そして十時過ぎまで五時間以上、一言もしゃべらない。しゃべらない方がおっかない。何もしゃべらないけれど、三段目あたりがけいこしているときは、デレーっとしてると竹刀でぶったたいたりしていた。
 よく武蔵川親方になって、朝、弟子たちに牛乳を飲ませたとか言うけれど、ちょうど時代的にもそういう時代だったんだろう。牛乳は一年かそこら続いただろうか、みんなあまり飲まなくなってやめてしまった。しかしそういうことが斬新だったのではなかろうか。
 ちょうど私が入幕したときに師匠が交代したわけだ。だから新しい師匠は私なんかには、まあ一人前になっていたので、多少遠慮気味だったようだったが、北の富士などは三段目のころには徹底的に鍛えられた。それこそ牛乳なんかもバンバン飲まされて……。若い衆のけいこが済んでからガーッと飲ませていたようで、私ら関取衆のけいこが終わったときにはもう無くなっていた。今の関ノ戸の福の花とか、禊鳳、松前山、あの辺が一番かわいかったのではないか。彼らはほんとに武蔵川のおやじが一人前にしてしまった。
 おやじには私もかわいがってもらった方だったけれど、やっぱり北の富士をいちばんかわいがっていた。将来の横綱だと思って期待していたようだ。大関まで部屋に居たから、私はいつも、「お前はおれとは違うそ、もっとテレンパレンしているのを直さんといかんぞ」
 とよく小言を言ったりした。
 北の富士はけいこをつけると、ちょっと気が入っていないときなど、十番ぐらいから力を抜いてワーッとこけ出す。その度に、
「こりゃ、また始めやがったな」
 と注意したものだった。まあ、たまには一生懸命けいこすることもあったけれど……。
 おやじは北の富士に本当に期待していた。かわいくてかわいくてしようがなかったみたいだった。北の富士は甘えん坊のところもあったし、体に魅力があった。おやじ好みで派手な性格だった。たとえ自分が師匠になってからの新弟子ではなくても、序二段、三段目ぐらいから自分が育て上げたというのは、おやじにとってはやはりうれしかったに達いない。自分の代になってから見る見る伸びて来たのが大分居た。
 師匠が交代したころ、出羽毎部屋もちょうど流れの変わる時期だったのだろう。若手の伸びるのに期待していたのだろう、武蔵川親方は出羽錦関はじめベテラン連中には何も言わなかった。

(十一)

 私がまぐれで平幕優勝したのは、武蔵川親方が部屋を継いで間もなくのことだ。
 三十六年の一月、新入幕の場所は十勝五敗だった。新入幕で十番勝っても私は何も目立つ方ではなかったので、三賞はもらっていない。
 で、場所後張り切ってけいこをしていた。あれは二月初旬のことだから、まだ場所が終わった直後、東京の部屋でのけいこの時だ。上がり座敷でおやじも見ていた。
 金乃花とけいこしていて、デレデレとそのまま下がった。そうしたらおやじにどなられた。
「馬鹿野郎!もう一番行け!」
 というので行った。そうしたらまた同じように寄られた。ここでまたどなられてはいかんと頭に来てガーンとうっちゃった。その時右足をバリバリとやっちゃった。
 場所前にはもう大分回復して、少し無理すれば相撲が取れるまでになっていた。師匠に、
「取れるから取らしてほしい」
 と言ったら、
「駄目だ。それが癖になったら何にもならん。お前はこれからなんだから、幕じりに落ちようと、十両に落ちようと関係ないじゃないか。今場所は休め」
 と言われて休場した。
 この休場が結果的には幸いした。食っちゃ寝、食っちゃ寝しているうちに体がプーっと太った。けいこを始めてみても、みんな相手が軽く感じる。組めば相手がボーンと持ち上がるし、突っ張ればバーンと飛ぶ。けいこしないで休んでいるうちにいっぺんに強くなったような気がした。それまで九〇キロ余りだった体重が一〇〇キロを超したし、これからも体がもっと大きくなれるということに自信がついた。
 この時、一〇〇キロを超したことで、私の人生が変わった。私の半生はラッキーの連続だけど、けがをしたのもまたラッキーの一つだった。けがして休んで、その直後初優勝したので、人生が狂っていったとも言える。このことが果たして良かったのか、悪かったの分からないが……。
 初優勝した場所は早くから三番負けてしまったし、優勝などということは全く頭になかった。それが大鵬さん、柏戸さんはじめ上がバタバタ負けたから、結局私のところへ優勝が転がり込んで来た。
 当時、平幕優勝した者は大関になれないというジンクスがあると言われた。周囲は「気にするでしょう」と言うけれども、自分は気にしないばかりか、かえって気をよくした。周りで「上がれない」と言うのは、逆に頑張れば上がれるということだとか、ひょっとしたら自分も大関になれるんじゃないかと思ったりした。
優勝した次の場所は幕内上位に上がって十一番勝った。大体平幕優勝した者は次の場所四、五番しか勝てない者が多いようだが、私の場合はこの辺から入生が狂ったとでも言うのだろうか……。
 初日柏戸さん、三日目北葉山と二人の大関に勝って、六日目には横綱若乃花関を破った。
 若乃花関には私が十両のとき、巡業でけいこをつけてもらった。巡業で若乃花関が土俵に上がるとガイにされるのでみんな逃げ回っていた。私は少し二日酔い気味だったのでもたないかなと思っていたが、「来い」と言われたのでガンガン当たって行ったら、
「お前、結構強いじゃないか」
 と褒めてくれた。
 それでも本場所、初顔でまさか勝てるとは思わない。まわしを取られたらたたきつけられると思うから、上に上げて振った方がいいと思っていた。案外思ったより軽かった。勝つときはそんなものなのか。若乃花関は晩年に差しかかっていたといっても、天下の第一人者だ。まぐれだったんだろうが、本当にうれしくて、万歳したいぐらいだった。
 若乃花関には三番勝たせてもらったが、後に相談役が酔っているとき言っていた。
「佐田の山に勝つまではやめまいと思った」
 と。
 四度目に顔が合ったときには投げを打たれてバーンと観客席まで飛ばされた。
 私はこの場所、朝潮さんにも勝って殊勲賞をもらった。次の秋場所三役になってからは下に落ちてないので、金星はこの場所の二つだけ、平幕で横綱、大関とやっているのは一場所だけだった。
 そのときはそうは思わなかったけれど、今振り返ってみると、平幕で優勝が転がり込んで私には戸惑いがあった。私が優勝杯をもらっていいのかなと思った。それが二枚目に上がって十一番勝ったころから相撲に対して「これならやって行けそうだな。これから十年ぐらい相撲を取れるかな」という感じを持った。まだ大関、横綱になれるとは考えなかったけれど、ある程度相撲に自信を持ったような気がする。あのころは相撲が面白くてしようがない。三役ぐらいまでは本当に楽しかった。

(十二)

 私は元来無口でおとなしい方だった。あまりしゃべるのは好きな方ではないから、相撲界に入っても、返事をするぐらいで必要なこと以外はしゃべらない。
 だけどいつも一人で居るということではない。グループで居て面白いんだが、他人の話を聞いているだけで、自分で切り出してしゃべることはほとんどなかった。一人だけ離れているわけではなくて、皆と交わっているんだけれど、しゃべらされたときにだけしゃべるぐらい。ワハハと笑ったりはするんだけれども、自分から切り出したりはしない。
 幕下から十両に上がるころ相撲がちょっと面白くなって友達関係も変わってきた。入幕してからは徐々に結構飲んだり、しゃべったり、悪酔いして暴れたりもした。後に大関から横綱になってからはまた無口になってきた。三役のころがいちばん面白く、いちばん愉快だった。相撲も結構勝つし、遊んでも面白いし、飲んでも酒がうまいし、のぼせ上がる時期だったのか。
「おーい、今日は稼いで来たから」
 と、若い者を引っ張って行っては飲んだりしたものだ。
 その代わりけいこもよくやった。当時は、一門に栃ノ海や栃光さんというよいライバルが居て、三人でよくけいこした。
 栃ノ海さんはけいこ場でもすごいんだ。負けず嫌いで、負けると怒る。私はけいこ場ではあの人に分が悪くて、十番中、勝っても三番がいいところだった。今日はよかったという日でも四番ぐらい。どうしても食いつかれてしまう。
 栃ノ海さんは相撲がうまいし、強かった。また上がって来るのも速かった。幕下のころ大鵬さんも随分栃ノ海さんには手こずらされた。気の強い人で、飛びつきなんかやらされると、ずらっと抜いて行く。負けた方はしりをひっぱたかれる。私はよくあの人にやられた。横に食いつくのが本当にうまかった。相撲のうまさでは師匠の栃錦関以上かもしれない。
 それにしてもあの人の闘志はすごかった。私が関脇で二回目の優勝をしたときは、栃ノ海さんはテレビをけとばして壊してしまったという。私と別に仲が悪いわけじゃない。私がしゃくに障ったわけでもないんだろうが、よほど悔しかったのだろう。
 私が二回目の優勝をしたときは千秋楽に決定戦になって大鵬さんに勝った。大鵬さんはその場所勝っていれば、確か五連覇だったんじゃなかったか。
 あの人と相撲を取るのは嫌だった。私の相撲に合わない。大体大鵬さんにはほとんど勝てなかった。あの場所も私は本割りでは負けている。
 あの場所は十四日目まで大鵬さんと私が一敗で来た。私は十四日目、安念山に負けて二敗になった。だから千楽を迎えて大鵬さんは十三勝二敗だった。私が若羽黒をはたき込んだ後、大鵬さんは結びで柏戸さんと対戦した。私は大鵬さんが負ければいいとは思わなかった。だけど柏戸さんが勝てばいいと思った。
 大鵬さんが敗れて決定戦になった。出番前に田子さん、出羽錦関が「一発当たったらどうだ」とアドバイくれた。
 でもそのとおりしたのかどうかは分からない。無我夢中だった。頭.が空っぽになってしまった。でも多分そのアドバイスを実践したのだろう。作戦うんぬん、勝つうんぬんよりも、ただ自分の相撲を取ろう、当たって砕けろというのが成功したんだろう。
 大鵬さんも結びの相撲で負けて精神的に弱気になっていたんだろうか。いろいろの条件が大鵬さんには悪い方、こっちにはいい方に向かってしまったということかもしれない。
 思い切ってぶちかまして、左はす右から押して押し出した。この二回目の優勝で初めて技能賞ももらい、場所後の大関昇進が決まった。
 初優勝の時は平幕だったし、実質的には入幕二場所目。そんな自分がまぐれで優勝して、うれしいような、恥ずかしいような、悪いような気持だった。二回目の時は関脇だったし、これもまぐれと言えばまぐれ、ラッキーもあったろうけれど、自分にはこんな力があったのかなと信じられなかった。横綱、大関というのは全然頭に浮かんで来なかったけれど、しかしこれで何とか頑張っていけるのではないかと思った。実にうれしかった。
 大関昇進の使者を迎えたときは周りがワイワイ喜んでくれたけど、自分では緊張のしっぱなしだったのではなかったろうか。あまり分からなかった。
出羽海部屋としては、千代の山さん以来の大関誕生だった。