【第二回】克己 出羽海智敬自伝

出羽海部屋 背景色

(四)

 私は昭和十九年四月、有川小学校―当時は有川国民学校といっていたが―に入学した。二年生の時終戦。二十五年有川中学校に入学、有川中学は昭和二十二年に創設されたばかりで、私たちは三期生に当たる。
 小、中学校時代私は無口でおとなしい少年だった。けんかを全くしなかったということはないが、ほとんどけんからしいけんかをしたことはなかったし、何より出しゃばるのが嫌いな子供だった。走るのは速かったが、特にスポーツをやっていたわけではない。相撲も一回まわしを締めて宮相撲に出たことがあるくらいだ。
 家の大工仕事はよく手伝ったし、自分で言うのも変だが、親の言うことはよくきく、素直な子だった。学校の成績の方は、小学校三年ぐらいからはまあまあの方だったが、ああいう風土では偉いというのは、勉強が出来るというよりも、暴れん坊で餓鬼大将になるぐらいの方が子供たちの尊敬を集めるのだ。親父は「晋松はおとなしすぎていかん」と、いつも私がおとなしいのが気に食わないようなことを言っていた。
 戦前まだ私が幼かったころは、親父は朝起きたら必ず戸を開けて神棚を拝んでいた。ところが戦争に負けたとたんそんなことはしなくなった。やはり張り詰めていた糸が切れたというか、荘然自失の状態だったのだろう。戦後は女が強くなったといわれるが、うちでも母親が闇米を買ったりして頑張った。
 近所に田中米穀店という米屋があり、そこの江浜幸一君が、小、中学校を通じてずっと同級で、大変仲が良かった。いつも一緒に海で泳いだり、魚を取ったりしていたし、たまには畑荒らしをしたこともある。将棋もよくやった。
江浜君とは高校も一緒、今でも親しくしており、私が関取になってからは、田舎で後援会を作ってくれたのも彼だった。昨年有川町で巡業があった時も、彼が勧進元をやってくれた。そのほかに、今は町長になっている中山倉光君や、建設業をしている山口兵作君など一が仲の良い遊び友達であった。
 昭和二十八年県立上五島高校に入学した。この学校も前年に新設されたばかりの高校で、私たちは二期生である。
 最初私は高校に行く気はなかった。親父の跡を取って大工になるか、捕鯨船に乗りたいと思っていた。ところが友達が皆高校に行くという。私より出来ないような生徒までが高校の入試を受けるというから、「ようし、そんならおれもやってみよう、高校に行く方向で勉強しよう」という気になった。そして受験したらたまたま受かってしまった。
 ところが親父は「高校へなど行くな」と言う。おふくろに相談したら、「行かせたいけど、経済力がないから、月謝も払えない。あきらめなさい」と言うことだ。
 そこで私は「それなら金を掛けないようにする。バスには乗らないで歩きで行く」と言った。
 上五島高校は有川からは山一つ向こう、北へ五キロほど行ったところにあり、バスで行っても二十分、歩いたら一時間はかかる。「バスは乗らない。鞄も要らない。教科書は風呂敷に包んで行くと約束するから行かしてほしい」 と言ったら、「それぐらいの決心があるんだったら」と、教科書とノートは買ってくれて行かせてくれた。
 だからバスには乗らないで、教科書、ノートと弁当箱を一緒に風呂敷きに包んでぶら提げて、近道して山の上を登って歩いて通学した。途中バスがほこりを巻き上げて走って行くとまともにそのほこりをかぶってしまう。格好も悪いし恥ずかしかったけれど、そのうち慣れてしまった。最初は何人か歩いて行った者も居たが、そのうち一人減り、二人減りして、最後は私一人になってしまった。
 二年生の終わりごろになって親父が中古の自転車を買ってくれたときは本当にうれしかった。そのころから私は体は大きかったし、自転車はボロだったので、その自転車はよく壊れた。その度に自分で修繕して、毎日ピカピカに磨いていた。そんなポロ自転車でも、自転車による通学は実に快適だった。
 上五島高校は新設校だが木造のポロ校舎で、グラウンドも未整備、石がゴロゴロしていた。グラウンドの掃除をしたり、草取りをしたのが印象に残っている。今は校舎も変わったし、五、六倍の広さになっている。こんな立派な学校だったら、私だってもっと勉強したのではなかろうか。
 クラブ活動で実際にやっていたのはバスケットボールぐらい。私は江浜君とテニス部に入ったが、テニスコートも予定地があるだけでまだ出来ていなかった。だからラケットも握っていない。
 それに家の仕事を手伝うのも高校進学の条件の一つだった。毎日学校から早く帰って家の手伝いをした。田舎の大工は日が暮れるまで働く。夏などは七時過ぎまで現場に行って仕事をしていた。そんなわけで、テニス部に入ったのはどこかに入らんといかんということだったから、活動していないクラブを選んだのである。そしてたまに何も仕事のないときは、野球の真似事をして遊んでいた。

(五)

 学校に行っていたころ相撲を自発的に取ったことはない。五島地方は以前は相撲どころといわれ、相撲の盛んな土地柄で、プロの力士になった者も多かった。ところが私たちの時代には、だんだん相撲を取る若者は少なくなり、町の中にあった土俵もほとんどなくなってしまった。
 私は中学一年の時、神社にあった土俵で行われた宮相撲に一度駆り出されたことがあった。だがその後ぐらいから、そこでの奉納相撲も中止になったようだった。
 高校三年になって私は突然県の相撲大会に駆り出された。前にも書いたように上五島高校は新設校だから、それまでどこの大会にも出たことがない。
たまたま相撲は、中学時代から取っていた強いのが二人居たので、もう一人居れば県大会に出場することが出来る。それでだれかということで、体の大きかった私が選ばれたのである。私は約一週間しこの踏み方を教わったり、にわか仕込みで鍛えられた。
 その時私が出場したのは団体戦だった。七、八校と対戦したが、私は二人ぐらいにしか勝てなかった。でもわずか一週間の特訓だけで急ごしらえの私より弱いのがいたわけだ。当時私は一メートル七十八、九センチ、七十キロちょっとぐらいで、大きい方ではあったがもちろん相撲が強かったわけではなく、特に目立つ方ではなかった。
 高校生のころは大相撲について全く興味がなかったわけでもないか、時にラジオを聞くぐらいだった。田舎のことだからプロの相撲を直接見たこともないし、羽黒山、東富士とか千代の山の名前はめんこで見たり、遊んだりして知っていたぐらいのものだった。
 そんな私がプロ入りすることになったのは全く偶然というほかない。
 高校三年の暮れも押し詰まって十二月二十日ごろのこと、中通島の青方、今の上五島町に大相撲出羽海一門の巡業がやって来た。青方は同じ中通島でも有川とは反対の西海岸になるので、有川から青方まで九キロはあるだろう。
 私たちは弁当を提げて一行の巡業を見に行った。千代の山や栃錦が土俵に上がってけいこをしているのを、「千代の山だ。大きいなア」とか「栃錦は強いなア」とか友達と一緒にワイワイ、ガヤガヤ言って見ていると、体育の先生が私に、「ちょっと来い」と呼びに来 て、支度部屋の横の役員室に連れて行かれた。そこには帳元の親方が居た。元外ヶ濱の千賀ノ浦親方である。津軽出身のこの親方がズーズー弁で、「おい、こっちへ来い」と呼び掛ける。「いい体をしているな」
 私は自分が大きいのをむしろ恥ずかしいと思っているころだったので、何を褒めてるんだろう、ぐらいに思っていると、「お前相撲取りになれるから来い」、「東京に行けるぞ」とか、「東京に行ったら何でも見れるよ」とか、いろいろ言う。
 私はただ「へえーっ」とびっくりした。
 私はそのときまだ自分の進路をはっきり決めかねていた。高校を卒業したら専門学校にでも行って、親父の手伝いしようか、それとも、捕鯨船はもうそのころはさびれてしまっていたけれど、船乗りになって自由に海に出たいとか考えていた。
 ところがその時「東京」というのにガーンと頭を打たれたようになった。それまでは島から出ても、せいぜい長崎か福岡に行くぐらいしか思っていなかったのに、東京とは……。
 それで迷いが出てしまって、強くなればどうだ、こうだ、と言われたものだから、「では行きます」と答えてしまった。「でも親とも相談しなければいけないから」と言って、一応家に帰ってから、ということになった。
 それと学校がまだ三学期が残っているので、卒業してからと言ったら、担任の福田先生が、「いや、もう三学期は進学する者だけが勉強するんだから、大して勉強することもない。卒業させるから行ってこい」と言う。
 この福田先生は体育の先生で大変私の面倒を見てくれた恩人の一人で、体が大きかった私に、鍛えて何かスポーツをさせたかったらしい。そういう場を与えるよいチャンスだと思ったのではなかろうか。
 家に帰って親父に相談したら、親父はびっくりしたような顔はしたけれど、きっと相撲が好きだったのだろう、「ああ、そうか、行け」といとも簡単に言った。
 ところが母はとんでもないと大反対、「あんな世界に行ったって、お前みたいなおとなしいのに務まりっこない」と泣きながら駄目だと言って止める。
 しかし私は「もう行くって先方には約束したことだし、高校を卒業したらどっちみちどこかに行かなければならないんだし、東京に行けるということだから、相撲に行って頑張ってくる」と決意を表明した。
 それから親せきの人たちが集まって送別会らしいものをしてくれた。送別会といっても、大勢の親せきの人たちがただやいやい言っているだけ。集まった者が皆心配して、女は全員が反対。
「晋ちゃんみたいにおとなしいのは駄目だから行くな」と、女たちの意見は一致していた。
 すると親父が飲みながら「ああ、うるさい、もう決めたんだから、本人が行くと言ってるんだから行かせろ」。ここで結論が出た。
 翌朝は四時半ごろ起きて、その時初めてタクシーに乗って親父と青方に向かったのだった。

(六)

 親父の見送りを受けて出羽海一門の千代の山、栃錦一行とともに、魚目町の榎津港から貸し切りの汽船に乗船した。まるで奴隷船の船底に放り込まれたような感じで、どこを見ても知らない顔ばかり。みんな裸で襯衣(シャツ)一枚、十二月下旬だけど中は暖房が効いていて、寒さは感じない。すごいところへ入ったなと思った。それでも船の中でじーっとしていた。
 そのうち「どこから来た」と言われて、「五島の有川です」と答えると、「おれも長崎だ」と言うのが居て、かわいがってくれた。
 やがて長崎に上陸、それから一週間か十日巡業に付いて歩いた。一行は東京に向かって徐々に東上して行ったのだ。私は特に何もするわけでもなく、くっ付いて歩いているだけだった。
 私が任されたのが中ノ海という三段目の力士。北海道出身で、東北訛りが強く何を言っているのか分からない。
向こうも私の九州弁がよく分からないらしい。中ノ海は「びっくり」というあだ名で、びっくりしたような顔をしていた。大分慣れてから「びっくりさん」と言ったら、「馬鹿野郎、おれは中ノ海だ」って言われた。千代の山関を角界に入れた若狭先生のスカウトで出羽海部屋に入った人だった。
 ところで当時の巡業では旅館に四、五人で一部屋に泊る。本当はそこへ一人増えると駄目なのだが、新入りの私が小さくなっていると、「まあ、いいや、お相撲さんのことだから」と、旅館の人も大目に見てくれる。
 朝早く四時半か五時ぐらいには起きるが、学生服のままで、まわしを締めてけいこをしろとも言われない。私は何もすることがないものだから、他人のけいこしているのを、ブラブラ見て歩くだけ。取組が始まると空いている席で、割り紙を買って相撲を見ているだけだから、すこぶる退屈だった。
 朝から腹は空くし、相撲の世界のことは知らないものだから、何をしていいか全く分からない。
 最初の日は腹が減って、客席の中に入って割り紙を見てパンを食べていた。相撲がはねてから皆のところへ行ったら、「もうお前脱走したのかと思った」「昼飯の時もちゃんと待っていたのに来なかったな」と笑っている。「飯はいつ食うのか分からないし……」と言うと、「お前馬鹿か」とまた笑う。飯の時は来いとか言えばいいのに教えてくれない。それなのに笑われたり、怒られたりするのだから矛盾している。
 二日目からは分かったので、その後はちゃんこを作っているのを見に行ったり、けいこ場を見たりしていた。まだ半分はお客さん扱いだから、学生帽と洗面道具、下着を持っただ けで、そのまま皆に付いて移動した。
 忘れられないのは途中三重県の菰野で仕舞(しもた)屋に泊った時のこと― いわゆる民宿だと関取衆は立派な家に泊まる。私の係だった中ノ海は、一人で農家に泊まることになっていた。
 私は中ノ海にそこへ連れて行かれた。もう夜も八時を過ぎていた。真っ暗な田圃道をテクテクニ人で歩いて、やっとその晩の宿である一軒の農家にたどり着いた。
 その家の人は私たちが来たのを見て 「約束したのは一人のはず、一人多いではないか」と迷惑そうに言う。先輩が「実はこれは今度新弟子で入ったんだから一つ頼みます」と言うと、「布団が無いから帰ってくれ」と断られた。
 中ノ海も困って、「その辺の片隅でもいいから寝かせてくれ」と頼んでも、「食べ物も用意してないから」と素っ気ない。
 見ると馬小屋があったので、「この馬の側でもいいから」と兄弟子はわらをもつかむ気持で懇願してくれる。「いや、そんなわけにいかない。そんな失礼なことは出来ない」と―。
 しかしとうとう大きな布団で二人で寝ることにして、そこへ泊めてもらった。クリスマス近くだったけれども、寒かったという記憶はない。大体私はそんなことに無頓着だった。まあ泊れればいいやと思っていたから。その時食べ物はどうだったかは忘れた。
 そんなことがあって、暮れになって一行と一緒に東京へ着いた。千代の山、栃錦一行だから関取衆も多く、全員だと二百人を越す人数が居た。私はどこへ行くのか知らなかったので、だれかが「おい、来い」と言って春日野部屋まで行きかけたら、「おい、これは出羽海じゃないか、こっちだ、こっちだ」って呼んでいる。春日野部屋も出羽海部屋も分からなかったし、どこへ入っても一緒だという気もあった。
 出羽海部屋には同じ有川町出身の坪井さんが居た。後に五ツ潟と言って十両まで上がった。同じ有川町出身といっても、在が違う。鯛ノ浦というところで、家からは一里(四キロ)ぐらい離れていた。私より二つ、三つ年上だったが、小学生のころ、あの人が相撲を取っているのを見たことがある。とても強かった。体は大きい方ではなかったが、どちらかというと柄の悪い方で、いわゆる餓鬼大将だった。
 部屋に入って聞もなく、兄弟子が、「親方が居るからあいさつに行け。こうやってお辞儀をするんたよ」と教えてくれた。元横綱常ノ花の出羽海親方の前に出て、「よろしくお願いします」と言ったら、「お前、どこから来た」「五島です」「しっかりやれ」。これだけだ。それから十両に上がるまで、一対一で口をきいたことはなかった。」
 こうして明くる三十一年一月の初場所土俵を踏んだ。ちょうど戦後初めて前相撲が復活した場所であった。