出羽海智敬自伝(第一回)
日本相撲協会理事長・元横綱佐田の山
出羽海智敬 題字・筆者
協力・スポーツキャスター 向坂松彦

(十九)

 横綱に上がって二場所、三場所は気持にゆとりも出て調子がよかった。二場所目の夏場所には十四勝一敗で優勝した。ところが年が替わって昭和四十一年に入ると、やや体調を崩したこともあって不振に陥り、二場所途中休場が続き夏場所は初日から休場した。そのころ私は確かに血圧が上がったり、胃腸を壊したりしていた。それでも大きな病気はなかった、やはり精神的なものが大きかったと思う。
横綱を何場所か務め、優勝もしてある程度の成績を残していると、刺激が無くなってだんだん気分的にもだらけてきたのではないだろうか。この辺が一流の横綱になっていくか、ならないかの差なのだろう。私は二流、三流かも分からない。そこから先が駄目だったのだから。
先人に追いつくのは易しいけれど、守っていく難しさというものがある。それが分かっているのだけれども、相撲が消極的になってしまう。
ある程度自分に力が付いているのは分かっている。分かってはいるんだが、前に出る相撲というのは冒険が要る。負けたくないという気持になると、相撲も消極的になる。勝てなくなる。動きは鈍くなる。そのころはある程度四つ相撲も覚えてきたけれどそれも中途半端。そんな相撲では大きい相手には通じない。
自分は最初は右四つで下手からの芸が多かったけれど、右四つになると動きが無くなる。そこでけいこ場で左四つで右からの上手投げを打つ相撲をやってみたりしているうちに、左四つの相撲も取れるようになった。自分の相撲は一生懸命やらないと勝てない。だから一生懸命取ってはいるんだけど、やはり横綱の地位を守って行くという気持が強かったんだろう。思うように相撲が取れず、勝てなくなって精神的に大変苦しかった。
大体横綱を何場所か務めるとだれでもくたびれてくると言えるかもしれない。大横綱でも一時期は休みがちになっている人が結構居る。三年も五年も休まずやったのは北の湖ぐらいだろう。大鵬さん、柏戸さんもそうだし、千代の富士でも肩が抜けたりして時々休んだ。まあ千代の富士の場合はあれが適当な休みになって体を酷使しなかったのがよかったのかもしれない。
昭和四十一年に入って初場所と春場所を途中休場、夏場所休場と三場所続けて休場したが、私はそれでもまだあのころは「なにくそ」と立ち直れる気持をもっていた。そして七月場所に一応再起を果たし、九月場所には久しぶりに十二番勝った。
確かこの場所のことだったと思う。大鵬さんが十三日間勝ちっ放していて、十四日目私と顔が合った。私は前日までに三敗していた。私はその相撲で右からの上手投げで大鵬さんに勝った。私も大鵬さんと同じ横綱だったけれど、それまで大鵬さんにあまり勝てなかったものだから、相撲が終わって支度部屋に引き揚げたら、アナウンサーが、
「おめでとうございます。どうですか」
と、インタビューに来た。それで、
「ばかやろう。おれだって横綱じゃないか。そりゃあ、まぐれで勝つこともあるよ。インタビューは無し」
と断ったことがある。
大鵬さんはその場所既に優勝を決めていたのだが、その後千秋楽にも柏戸さんに負けて二連敗しているはずだ。
翌四十二年初場所には初日から十三連勝して、十四日目大鵬さんと全勝どうしで対戦した。私は右からおっつけて出て大鵬さんを横向きにさせたが、更に上手を取ろうとした瞬間に大鵬さんに左からすくわれて負けてしまった。この場所は千秋楽玉乃島に勝って十四勝したが、大鵬さんが全勝したので優勝出来なかった。
その年の九州場所は十二勝三敗の成績だったが十五場所ぶりに優勝した。そして明くる四十三年の初場所十三勝二敗で二場所連続で優勝した。この二場所は周りが調子悪かったのもあって、幸運にも連続優勝したわけだ。
だが次の大阪の春場所では勝てなかった。
二日目長谷川に敗れ、四日目には入幕二場所目の高見山に完敗した。そして続く五日目物言い取り直しの末顧麟児に敗れ引退を決意した。
私は横綱になったころから、自分は何年もつだろうか、三年ぐらいやって行けるだろうか。技術のある力士なら長もちするけれども、私のように気合いで取っている者、馬力で相撲を取っている者は、馬力が無くなったらもう終わりではないだろうかと考えていた。
横綱になって一度目の不振のときはまだ気力で乗り切ったけれど、二度目のこの時は自信を失った。八番か九番は勝ったりすることは出来ても、たまに十番勝ってもまた休んだりする。そういうのがどうも耐えられない。それでは横綱の地位に対して権威を落としてしまうのではないかという気持だった。
この時はちょうど大鵬さんも柏戸さんもあまり状態が良くなかったので、無責任なようで言い出しにくかったのだけれども、私としては、もう精も根も尽き果てた。これで辞めるしかない。それが九州入の悪いところでもあり、いいところなのだが、どうも守りに弱いのだ。

(二十)

 おやじに相談に行ったのは最後の顛麟児との相撲が終わってすぐのことだった。
あいさつして、そこで「駄目です」と言ったら、最初はおやじは休場と思ったのだろう。
「駄目か。それじゃ休場して……」
「いえ、引退したい」
おやじの方から辞めろと言われたわけではないし、私の口から「引退」と聞いて、おやじはきょとんとしていた。びっくりして顔を真っ赤にして、
「休め、引退はいつでも出来るじゃないか」
と言う。
しばらく説得された。三十分ぐらい粘っただろうか。おやじはたばこをプカプカ吸っていたけれど、結局私が粘り勝ちした。おやじは、
「分かった」
と言って、時津風理事長のところに飛んで行った。
私としては本当に親不孝だったと思う。でも私は性格が大体淡白な方だから、仕方がない。
おやじは私の引退を認めたら即出羽海を襲名しろと言う。それをすぐ言われて今度は私がびっくりした。
こっちは精も根も尽き果てて辞めると言い出した。辞めてのんびりしようというずるさもあったのかもしれない。まさか出羽海を継ぐことになるとは思わない。その時は本当に自分の甘さにびっくりした。また辞めるんじゃなかったなと思ったり、しまったと思ったけれども、弱いからしようがないし、しかしどうしてこんなに早く部屋をやらなければいけないのかと思ったりしたものだった。
明くる日だったと思うが、おやじは部屋の親方衆、関取衆みんなを集めて、「そうするから、おれは協会の仕事に専念する。ひとつみんな協力してやってくれ」
こっちはショックだった。まあ先に私に話はあった。それにしても引退を決めた次の日にみんなを集めてそう言ったのだから……。私は自信が無いと言ったんだけれども、おやじはもう決めていたのだ。
そのときは本当につらかった。みんなよく私を立ててくれたけれど、何せ先輩の親方衆ばかりだ。みな小姑のようなものだ。背後におやじが居るから何とかもったのではないだろうか。
その代わり、おやじは私に後を継がせてからけいこ場にはほとんど出て来なかった。巡業から東京に帰つてから、五月場所前に師匠がけいこ場に降りて来たのは最初のうち二、三回ぐらいだったろうか。初めのうちだけ要領だけ覚えさせようと思ったのだろう。
本場所のときに、
「あれは元気だな」
とか、
「惜しかったな」
とか、晩飯を食っていてそう言ったくらいで、一切何も言わない。そしておっかさんの方にも、
「お前、もうおれは辞めたんだから娘に余計なことを言うな。若い者は若い者でやるんだから、年寄りはもう口を出すなよ」
と言われたという。
親子だから言いたいことは山ほどあったと思う。年寄りから見ればあったのだろうが、本当に何も言わなかった。きっと言いたくていらいらするときもあったのではなかろうかと思うんだけれど……。
相撲の指導という点では、巡業に行ってもけいこをつけたり、「ちゃんとやらんか」とか言ったり、たまには部屋の幕下連中を集めて説教したこともあったし、別にその辺は現役のときから場所中なんかは親方衆や師匠もあまり居なかったからほとんど任された形だったので、違和感はあまりなかった。借り物ではないのだから自分で遠慮っぽいようなものはなかった。しかし部屋のけいこ場で、親方衆が勢ぞろいしているときなどは、逆にほかの親方衆の方が私に対して遠慮しているようだった。もっともそれも最初のうちだけだったが……。
おやじが私にすぐ部屋を継がせた意味は、今ではよく分かるような気がする。というのは私を信用していなかったということだ。おやじは私にそれだけの力がないと思ったのだろう。
私が引退して部屋付きの普通の親方としてやっていると、当たり前の親方になってしまう。それだったら、今苦労させてやった方がいい。後に交代の時期になった時に、佐田の山に跡を継がせようとする時にゴタゴタが起きてしまうぐらいなら、それより自分が居るだけでも背後に居て、力を付けてもらえばそれでいいんじゃないか、とおやじは考えたのではないかと思う。
二年、三年たって部屋付きのままで居るのが当たり前になっていたら、私自身も勝手気ままにしていたかもしれない。その方が楽だったろうから……。スカウトぐらいは行ったりしただろうけれども、並の親方になってしまう。逆に先輩の親方衆に遠慮して表面に出なくなってしまうと考えたのではないだろうか。
私はもともとどちらかと言うと表面に出るのは嫌いな方だから、継がされたら出ざるをえないから出るだろうけれども、普通の部屋付きだったら「先輩、先輩」と周りの親方を立てている。だからおやじはそんな私の性格を見抜いて、計算づくでそうしたのではないかと思う

(二十一)

 現役を引退していきなり出羽海を襲名し部屋を率いることになり、ひしひしと責任の重さを感じた。それでも一門には春日野先輩が居たので、出羽一門の総帥ということは意識しないで来れた。それに巡業にも一門で行ったわけではないので、その点でも気は楽であった。
弟子を育てるに当たっては、こせこせしたような関取衆だけは育てたくない。あいさつ、礼儀作法的なものはきちっとつけたいと思った。
力士を強くするには基本は別だけれども、欠点を直すよりも、いちばん手っとり早いのは長所を伸ばすことだ。だがそう思っても、口で言うのは簡単だが、なかなかそうは出来ない。
どうしても欠点の方が目立つ。
「どうもその癖を直さんといかんぞ」
と、そっちばかりに目が行く。本当に七分長所を伸ばし、三分欠点を直すぐらいになっていなければいけない。
それが八分二分ぐらいになればもっといいと思うのだけれども、なかなか出来ないのだ。
また癖があってこそそれが個性なのだ。皆が皆基本に忠実な相撲では面白くないし、必ずしも伸びるわけではない。でも部屋の力士は割とまともな者が多かった。私は特に突き、押しに徹しろとかあまり言ったことはない。たまには「突っ張りはこうだ」と言うことはあっても、あまり技術的なことを言わない。一生懸命さえやっていたら、どんなに不細工でも、相手を頭の上から引っ張り込んでも、あまり文句を言う方ではない。
私が弟子に注意できるのは、自分の現役時代に師匠から注意を受けた経験があり、それがまだ生きているからだ。
私は大関のころ、十番勝っていて、十一番の相撲の時に北葉山さんに負けたことがある。あの時は別に力を抜いたわけではないのだけれど、千秋楽で優勝も関係ない。向こうだって大関で八番ぐらい勝っていたのかと思うが、やはり優勝には関係ない。その時、私も一生懸命行ったつもりだったのだが、おっつけられたら、あっと出てしまった。やはり気力がないときはそうなるのだろう。
そうして帰ったら師匠に雷を落とされてしまった。
「責任がない。大関として責任を果たしていないじゃないか」
と。もっともで、叱られて、
「はい。本当にそうです」
って。そういうことが何回かあった。
師匠はめったに注意しないし、相撲の技術的なこともあまり言わなかったけれど、そういうことは怒られて、悪いというのは分かっているものだから胸に響いた。
そういうふうに自分が怒られた経験とか、自分の失敗も数多くもっているものだから、今度は自分が弟子に怒りながら「ああ、同じことを言っているな」と思うことがある。
こっちはまるで聖人君子みたいに、完ぺきな人間だったみたいに怒っているのだけれど、それは全然違う。自分が以前に同じことを言われているのだ。またこれがないといけないのだろうと思う。
私が部屋を継いだころ、三重ノ海は幕下上位で、十両直前のころだった。私が横綱のとき三段目ぐらいから私に付いていたのでけいこを付けたりした。三重ノ海は大関になり、一度は落ちるという苦境に陥ったが、太く短くてもいいから思い切り行けと言ったことがある。そのアドバイスが効いたのかどうか、横綱になった。
三月に部屋を継いで、その年の五月に新弟子に入ったのが尾堀の大錦、今の山科である。境川の鷲羽山は私が辞めたときはどの辺に居たのだったろうか。まだ湯かごを持っていてチョロチョロと洗濯係みたいなものだった。
鷲羽山が幕下に上がってまた落ちてショックを受けたりしたことがあった。
「そんなのは過程なんだから、弱いから負けたんだ。けいこしたら必ず勝てるから」
とか言って、私は鷲羽山を励ましたのを覚えている。彼は体は小さかったがよくけいこはやった。
鷲羽山が三役になったとき相撲を取ったら、私に勝てなかった。私は大きい者には駄目だったが、ああいう小さい者には辞めてからでもまだ大丈夫だった。
私が部屋を継ぐ前から部屋では千葉県の大原海岸へ夏の合宿に行くようになっていた。あれは大分続いたと思う。夏だけでなく冬にも行ったことがある。大原には初めは土俵を一面だけ造ってもらったのだが、私が部屋を継いでからあと三つ土俵を造った。合宿に行くと私は昼間は退屈なので道具はなかったが、目分量で屋根を立てて室内の土俵を三つ造った。材料は材木屋へ自転車で買いに行った。
「これとこれ、柱何本、屋根は五十枚だ」
などと言って買って来て、足りないとまた買い足しに行った。やはり子供のころに父親の仕事の手伝いをした経験が多少役に立ったのかもしれない。土俵が出来てから、敷地に杉の木とか槙の木を買って来て植えたりしたが、今ではうっそうと育っているらしい。